往年の名女優オードリー・ヘップバーンですが、私生活において彼女は結婚していたのでしょうか。この記事では、オードリー・ヘップバーンの気になるプライベートな一面をまとめます。結婚や子供について紹介しますので、オードリー・ヘップバーンの女優としての一面以外の部分を知りたい方は要チェックです。
目次
オードリー・ヘップバーンとは
この記事で紹介するオードリー・ヘップバーンとは、そもそもどのような人物なのでしょうか。ここではまず、オードリー・ヘップバーンという人物について、基本的なプロフィールとその経歴をまとめます。
オードリー・ヘップバーンのプロフィール
オードリー・ヘップバーンはベルギー・ブリュッセル出身の女優です。1929年05月04日に誕生し、1993年01月20日、63歳にして亡くなりました。身長は170cmで星座は牡牛座、ハリウッドの黄金期を代表する大女優です。
1953年、映画「ローマの休日」でアカデミー主演女優賞を受賞したことによって一挙に脚光を浴びることとなります。そのほか、『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』などで主演を務めています。
受賞歴も豊富で、ゴールデングローブ賞、トニー賞、グラミー賞、エミー賞などに輝いたことがあります。今もなおオードリー・ヘップバーンの名は永遠のファッションアイコンとして語り継がれています。
オードリー・ヘップバーンの経歴
オードリー・ヘップバーンは当初、イギリスで数本の映画に出演していました。彼女が主演を初めて務めることになったのは1951年のブロードウェイ舞台作品「ジジ」でのことで、1953年に映画「ローマの休日」に出演しアカデミー主演女優賞に輝いてからは、一躍スターとなります。
また、彼女は女優業以外にもさまざまなフィールドで精力的に活動しており、1989年にはユニセフ親善大使に任命されています。オードリー・ヘップバーンはかつて、第二次世界大戦中のこと、ドイツ占領下にあったオランダで暮らしていました。
そんな出自でありながら、その後女優として名をなすことができたという体験から、残りの人生を最貧国で恵まれない生活を送っている子供たちの支援に充てたいという思いを持ち、実際にさまざまな国を訪れ支援活動を行っていました。
そうしてユニセフ親善大使としての活動を続けていた彼女でしたが、1992年9月のこと、活動で訪れていたソマリアで体調の異変に気がつき、10月には精密検査を受けるべくロサンゼルスへ飛びます。そこで、腹膜偽粘液腫であることがわかりました。
これは珍しいガンの一種で、この時にはすでに身体全体に転移していたことから、効果的な治療をすることもできませんでした。それからすぐの1993年1月20日のこと、彼女はスイスの自宅で息を引き取りました。
オードリー・ヘップバーンは誰と結婚した?
大女優として名を馳せたオードリー・ヘップバーンですが、私生活では誰と結婚したのでしょうか。ここからは、オードリー・ヘップバーンの結婚に関する噂についてまとめます。生涯にわたり二度の結婚をしていたオードリー・ヘップバーンの、それぞれの詳細に迫ります。
最初の結婚
一度目の結婚相手は俳優のメルファーラーです。俳優としての活動は伸び悩んでいたようですが、プロデューサー業や監督業などで成功していました。彼とオードリー・ヘップバーンが出会ったのは、グレゴリーペックが開催したカクテルパーティーでのことでした。
オードリー・ヘップバーンはこの時、彼に「共演したいので良い作品があれば声をかけてほしい」と話します。そこでメルファーラーは彼女のために共演できる作品を探し、ブロードウェイ作品「オンディーヌ」の脚本を送りました。
これをみたオードリー・ヘップバーンが快諾したことで二人の共演は実現、そして恋愛関係に発展し、1954年9月25日、スイスのバーゲンストックで結婚しました。二人の間にはショーン・ヘプバーン・ファーラーという男児が誕生します。
しかしオードリー・ヘップバーンは1955年と1959年、二度の流産を経験しています。二度目の流産に至っては、映画『許されざる者』の撮影中落馬してしまったことによるものだったようです。岩に打ち付けられた彼女は背中を負傷し病院に運ばれ、その後、流産が確認されました。
この二度の経験がオードリー・ヘップバーンの心に暗い影を落としたことは言うまでもなく、その後まもなく妊娠した彼女でしたが、無事に出産できるようにと一年にわたる休暇を取り、1960年7月17日、無事に長男を出産しました。
しかし1968年12月5日のこと、オードリー・ヘップバーンとメルファーラーの離婚が成立します。かつて、オードリー・ヘップバーンは旦那の気が難しいことは認めていましたが、関係は良好であると話していました。
しかし、長男を出産してからも1965年と1967年に流産してしまったことや、メルファーラーが気難しい性格であったことから結婚生活に嫌気がさしたことなどから、離婚する運びとなったと言われています。
2度目の結婚
メルファーラーと離婚したオードリー・ヘップバーンでしたが、息子のショーンと共にスイスのレマン湖地方・モルジュ近郊のトロシュナ村に居を構えて平和に暮らしていました。そんなあるとき、船旅をしていた彼女はイタリア人精神科医アンドレアマリオドッティと出逢います。
この船旅はギリシアの遺跡をめぐるものだったようですが、この最中にオードリー・ヘップバーンはアンドレアマリオドッティに惹かれていくのでした。二人は1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日に次男ルカ・ドッティが誕生します。
子供を強く望んでいたオードリー・ヘップバーンは、そのためなら仕事を辞めても良いとさえ思っていたようです。そして帝王切開で無事に出産することがでいたのですが、1974年のこと、オードリーヘップバーンはまたも流産しています。
1982年のこと、アンドレアマリオドッティは若い女性と不倫関係に陥ります。一方のオードリー・ヘップバーンもまた、『華麗なる相続人』の撮影の際共演者のベンギャザラと不倫関係となり1982年に離婚することとなりました。
オードリー・ヘップバーンの子供
オードリー・ヘップバーンは二度の結婚を通して、二人の子宝に恵まれています。しかしその一方で、何度も流産を経験していると言うくらい事実も見逃すことができません。ここでは彼女の子供についてまとめます。
子供を何度も流産
子供を強く望んでいたオードリー・ヘップバーンでしたが、度重なる流産に見舞われています。1959年の映画「許されざる者」撮影中に起こった落馬事故での流産の時は特に精神的なダメージを負い、ひどい鬱状態に陥ったと言います。
体重は著しく減り、タバコを吸う本数も増えました。しかしその半年後、1960年に長男を出産したことで、彼女は次第に元気を取り戻します。彼女は終戦時、国連の機関であるUNRRAから食料援助を受けたことで飢えを凌ぐことができた経験から、世界中を巡って子供達を救う活動に精力を注ぎました。
最初の子供はショーン・ヘプバーン・ファーラー
『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故の半年後に出産した長男は、最初の夫メルファーラーとの間に授かったショーン・ヘプバーン・ファーラーです。流産の末にやっと授かった初めての子供は、傷ついたオードリー・ヘップバーンの心を支える存在となりました。
2人目の子供はルカ・ドッティ
オードリー・ヘップバーンの二人目の子供は、二番目の夫アンドレアマリオドッティとの間に誕生したルカ・ドッティです。ルカ・ドッティは2013年、母であるオードリー・ヘップバーンの未公開写真などをまとめた「Audrey in Rome」という本を出版しています。
オードリー・ヘップバーンの息子の子供
オードリー・ヘップバーンには二人の息子がいますが、さらに彼らにもまた子供が誕生しています。ここからは、オードリー・ヘップバーンの息子の子供についての情報をまとめます。脈々と受け継がれる彼女の遺伝子の系譜を辿りましょう。
ショーンの子供はモデルのエマ・ファーラー
オードリー・ヘップバーンの長男、ショーン・ヘプバーン・ファーラーの子供はエマ・ファーラーという女性で、モデルや女優として活動しています。2014年に雑誌の誌面を飾ったことでモデルデビューし、2017年には映画にも出演しています。
孫娘は祖母の美貌と遺志を受け継ぐ
エマ・ファーラーは祖母オードリー・ヘップバーンの遺志を引き継いで人道支援も行っています。働く女性を支援する「ウーマンインソサエティ2018」というイベントでは来日したこともあります。
オードリー・ヘップバーンは2人の息子に看取られ旅立つ
1993年1月20日に亡くなったオードリー・ヘップバーンですが、その最後は穏やかなものでした。最後の恋人ロバート・ウォルダースと二人の息子たちに囲まれ、スイスの自宅で静かに息を引き取ったと言います。
葬儀には元夫のメル・ファーラーやアンドレア・ドッティ、親友のユベール・ド・ジバンシィらが参列、オランダ王室からも花が手向けられました。彼女は今トロシュナの街を一望できる小高い丘に眠っています。
オードリー・ヘップバーンは2人の子供の母親だった
度重なる流産という悲劇に見舞われながらも二人の子供を授かったオードリー・ヘップバーンは、今もなお世界中に根強いファンがいる大女優です。彼女の子供や孫にもその遺志は受け継がれており、これからもその存在は人々の心に生き続けることでしょう。
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