今でもその美貌と上品なたたずまいで不動の人気を誇っている女優のオードリー・ヘップバーンですが、晩年の活動や死因について知っている方は意外と少ないでしょう。そこで今回は、オードリー・ヘップバーンの生い立ちや晩年の活動、そしてその死因などについてご紹介します。
目次
オードリー・ヘップバーンの基本情報
映画だけでなく、劇中での上品で優雅なたたずまいから、現在もファッションアイコンとして人気のオードリー・ヘップバーンですが、どんなプロフィールや生い立ち、プライベート事情を抱えていたのかを知りたいという方もいるでしょう。ここでは基本情報についてご紹介します。ぜひ参考にしてみてください。
プロフィール
オードリー・ヘップバーンは1929年5月4日に生まれました。ベルギーの首都、ブリュッセルのイクセル出身です。イクセルという街は、1196年にベネディクト会の修道女によって、ラ・カンブル修道院が創設されたという起源を持っており、街全体にカトリック色が色濃く残っています。
オードリー・ヘップバーンは幼少期をベルギーやイギリスで過ごしていたほか、オランダで暮らしていたこともあります。ちなみに彼女の国籍はイギリスです。身長170cmのすらりとしたスタイルがスクリーンの中でも印象的です。
生い立ち
気になる生い立ちですが、オードリー・ヘップバーンの父親はアイルランド系のイギリス人で、ナチス黒シャツ党の幹部だったと言われています。母親はオランダ系男爵の出身で、オードリー・ヘップバーンの持つ上品な雰囲気にも納得です。
5歳のときにイギリスへ移住し、9歳のときに両親が離婚しています。離婚後はオランダのアルンヘムへ移住しました。アルンヘムへ移住した当時、現地では第二次世界大戦の真っただ中で、反ナチス運動も激しい状況でした。
当時11歳だったオードリー・ヘップバーンも反ナチス運動に参加しており、スパイに手紙を渡すなど、子どもながらにできる範囲で協力していたというエピソードもあります。
しかし反ナチス運動に協力してたことがばれ、オードリー・ヘップバーンは異父兄弟と共に強制収容所へ収容され、一時期は栄養失調に悩むなど、厳しい生活を余儀なくされました。
5歳ごろからユダヤ系バレリーナであるソニア・ガスケルに師事し、バレエを習っていました。1948年にはユダヤ系ポーランド人のバレリーナ、マリー・ランバートに師事するため、ロンドンへ渡っています。
結婚・子供
オードリー・ヘップバーンというと、あまり所帯臭いにおいがせず、いつまでも妖精のような美しさを保っている印象がある方も少なくないでしょう。実はプライベートでは2度の結婚と離婚をしています。
1954年にスイスで、アメリカの俳優兼映画プロデューサーであるメル・ファーラーと結婚しています。オードリー・ヘップバーンにとっては初婚だったものの、メル・ファーラーにとっては4度目の結婚でした。2人の間には1960年にショーン・ヘプバーン・ファーラーという息子が一人生まれています。
しかしその後メル・ファーラーの女性関係が問題となり、1968年に離婚となりました。その後、オードリー・ヘップバーンは1969年にイタリア人の精神科医であるアンドレア・ドッティと再婚し、1970年には2人目の息子、ルカ・ドッティが誕生しています。しかしながら1982年に離婚してしまいました。
つまりオードリー・ヘップバーンには2人の息子がいるということになります。現在、ショーン・ヘプバーン・ファーラーはアメリカの映画プロデューサー兼作家として活躍しています。
次男のルカ・ドッティは2015年に「オードリー・アット・ホーム」というタイトルで母親の料理レシピについて綴った本を出版しました。
出演作品
オードリー・ヘップバーンの出演作品にはどの様な作品があるのか、代表作を中心にご紹介します。改めて映画を観て、彼女の魅力に浸ってみるのもよいでしょう。オードリー・ヘップバーンといえば、1953年に公開された「ローマの休日」が思い浮かぶ方もいるでしょう。
オードリー・ヘップバーンは身分を隠してローマに来たヨーロッパのある国の王女、アン役で出演しており、グレゴリー・ペック演じるアメリカ人新聞記者との恋愛模様に胸をときめかせた女性も少なくありませんでした。
1954年に公開された「麗しのサブリナ」では、オードリー・ヘップバーンはハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデン扮する富豪の兄弟の間で揺れ動く、お抱え運転手の娘という役どころを好演し、アカデミー主演女優賞にノミネートされたほか、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞しました。
1956年に公開の「戦争と平和」では、ナターシャ・ロストワ役を熱演し、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされています。
1961年に公開の「ティファニーで朝食を」では、気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じ、1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされました。
このように、オードリー・ヘップバーンはその妖精的な美貌が魅力なだけでなく、その豊かな表現力で一流女優として評価されていました。ファッションアイコン的な面ばかり取り上げられがちですが、この機会に、ここでご紹介した出演作品をチェックしてみてください。
オードリー・ヘップバーンとタバコの関係
映画「ティファニーで朝食を」内で、オードリー・ヘップバーンが細長いキセルを口にくわえている姿が印象的だったという方もいるでしょう。オードリー・ヘップバーンは実はヘビースモーカーだったことで知られています。
「ケント」という銘柄のタバコを好んで吸っており、一本吸い終わるとまた次のを吸い始めるというチェーンスモーカーとして有名でした。その美しい容姿から、ヘビースモーカーという一面が意外です。
オードリー・ヘップバーンの死因
オードリー・ヘップバーンは1993年1月20日に63歳で亡くなっています。その早すぎる死に、世界中のファンが嘆き悲しみました。彼女の死因や晩年の健康状態に焦点を当ててみましょう。
死因は「腹膜偽粘液腫」
オードリー・ヘップバーンは100万人に1.5人の確率で発症するという珍しいガン「腹膜偽粘液腫」で亡くなっています。このガンは、腹部の臓器に粘膜を出す腫瘍細胞が付着し、巨大化した後に破裂することにより、腹腔内に腫瘍細胞を飛び散らしてしまうという恐ろしい病気です。
放置すると腸閉塞を起こして栄養失調に陥ることもあり、実際にオードリー・ヘップバーンも腸閉塞を患った上に余命宣告を受けています。
検査を受けたときには全身転移していた
オードリー・ヘップバーンは1992年9月末に、ソマリア視察中に体調の異変に気が付きます。スイスの自宅へ戻った後、腹痛を訴え、同年10月に精密検査を受けると、悪性腫瘍が虫垂や小腸へ転移していることが判明したのです。
オードリー・ヘップバーンの晩年の活動
オードリー・ヘップバーンは1970年以降、映画出演は以前よりも控え、出来た時間をユニセフでの活動に費やしていました。特に晩年はアジアやアフリカ、南米に暮らす恵まれない人々のための援助活動を多く行っていました。
晩年の活動①ユニセフ親善大使に就任
オードリー・ヘップバーンは1989年にユニセフ親善大使に就任しています。就任した当時、インタビューで、自身も幼少時代に食事や医療のサポートを受けていたことを明かし、ユニセフの存在意義について語っています。
晩年の活動②最後の映画出演は「オールウェイズ」
オードリー・ヘップバーンはしばらく映画業界から距離を置いた生活を送っていたものの、多くの人からそのカムバックを望む声が多く、1989年にスティーブン・スピルバーグ監督の作品「オールウェイズ」に天使の役でカメオ出演をしています。
8年というブランクを乗り越えての出演ということで、メディアからも大きく注目されました。この映画の出演料として約100万ドルを受け取ったオードリー・ヘップバーンは、その全額をユニセフに募金しています。
晩年の活動③最後はスイスの自宅で過ごす
ユニセフの活動で、世界各国を旅していたオードリー・ヘップバーンですが、最後はスイスにある自宅で過ごし、そこで息を引き取りました。旅先ではなく、住み慣れた自宅で最期を終えたというのはせめてもの救いかもしれません。
オードリー・ヘップバーンは晩年も影響力のある人だった
今回はオードリー・ヘップバーンの晩年の活動やその死因にスポットを当ててみました。若かりし頃はその美貌と演技力で、一流女優として名声をほしいままにしたオードリー・ヘップバーンですが、70年代以降から亡くなるまではユニセフで慈善活動に励んでいました。
今回の記事を参考にして、今一度、彼女が出演していた作品などを見返し、その生きざまに思いをはせてみるのもよいでしょう。